【バレーボールの歴史】なぜバレーボールは誕生したのか?

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バレーボールの歴史

 

バレーボールは最初「ミントネット」という名称で親しまれていました。アメリカ合衆国のマサチューセッツ州のホルヨークで誕生しました。男性に比べて力のない女性や子供が楽しめる娯楽として「ウィリアム・G・モーガン氏」が1895年に考案したそうです。

 

当時のルールは単純でした。

①人数の制限はなし!友達いっぱい集めていこう!
②何度ボールに触って返球してもおっけー!今やったらやりたい放題になりそう(笑)
③ボールをコートに落としたら負け!シンプルイズベストですね!

 

レクリエーションという点ではとても楽しい遊びだったんです!

 

それが1896年モーガンが名前を付けたミントネットはハルスデット氏(YMCAトレーニングスクール教官)の手によってバレー・ボールと改名されました。その後1952年に今のバレーボール(volleyball)になったのです!

 

カッキー
最初に覚えた英単語が「Volleyball」だったのを思い出すなー。ブイオーエルエルイーワイブイオーエルエルイーワイって小さい頃によく口ずさんででたよ!

 

バレーボールの歴史 日本に登場したのは1913年だった

F.H.ブラウン氏によって1913年に日本へバレーボールが上陸したそうです。当時は今ほどバレーボールのルールが明確ではなく、日本の中でバレーボールの独自ルールが出来上がって行ったといいます。

 

アメリカで最初に誕生したバレーボールの前身ミントネットでは人数制限が無かったですが、日本独自のルールでは16人制から始まり12人制、9人制、今の6人制へと変わっていきました

 

第1回バレーボール世界選手権が開催されたのは1951年だった

最初にバレーボールの世界大会が行われたのは1951年の事でした。

 

最初に開催されたのは女子バレーではなく男子バレーだったといいます。当時の日本のバレーボールは9人制が主流だったが、世界大会など世界のルールは6人制ルールでした。

 

日本女子バレーボール 東洋の魔女とは

この動画を見ましたが、昔の日本のバレーボールの練習が斬新で驚いた事と試合での必死なプレーがすごく印象的でした。

 

東洋の魔女という呼び名は1964年の東京オリンピックで圧倒的な力の差を見せつけ優勝した時に付けられた呼び名ではありません。東京オリンピックでは5試合行われたうち落としたセットは1セットのみという驚異的な数字が出ています。優勝決定戦である日本vsソ連の試合では視聴率が70%近くの記録が出たといいます。

 

東洋の魔女という呼び名がついたのは、1961年に日紡貝塚がヨーロッパに遠征した時に各国の代表チーム相手に22連勝という記録を達成した時に現地のスポーツしが「東洋の魔法使い」「東洋のタイフーン」という呼び名をつけたといいます。

 

その呼び名を日本新聞社が「東洋の魔女」と言い換えたのが呼び名の由来だといいます。

当時は今よりも外国人との体格の差がありました。

 

さて、東洋の魔女はどのようにして体格で勝る相手に22連勝という圧倒的な力の差を見せて勝ち続けたのでしょうか?

 

答えは「レシーブ力」です。

 

当時どこの国も編み出さなかったレシーブ方法で勝利を重ねたのです!そのレシーブ方法とは「回転レシーブ」です!

 

回転レシーブとは、レシーブで転がった時に身体をローリングさせてすぐに動ける体勢を作るレシーブ方法の事です。この回転レシーブを中心としたレシーブ力で守って守るバレーボールを展開して体格が大きい外国人勢相手に勝利をしたんです!

 

監督はスパルタで有名な大松監督

22連勝、そしてオリンピックで金メダルというチームを率いていたのは、大松博文監督でした。大松監督は根性論・精神論なんでもありの超スパルタだったことで有名です。今やれば一発退場だと思います(笑)実業団選手だった選手たちは夕方から深夜まで練習をする時があったといいます。徹夜して練習に取り組ませたという話は有名です。

 

大松博文
大松博文、だいまつ・ひろぶみ。バレーボール・コーチ。東京オリンピックでバレーボール全日本女子チームの監督となり同チームを金メダルに導いている。同チームはその強さから東洋の魔女と称された。過酷な練習を選手に課し、鬼の大松と恐れられた。

関西学院大学卒業後、ニチボーに入社。陸軍に召集され、インパール作戦に従軍。過酷な作戦の数少ない生存者の一人として帰還。ニチボーの女子バレーボール部監督に就任。以降、同チームを世界一に叩き上げた。

引用:https://systemincome.com/8087

 

大松博文監督の名言である「すべてを犠牲にし練習すれば負ける道理がない」は個人的にとても好きな名言でした。高校生の時、ハードな練習が続く夏休みにこの名言を思い出すことで踏み止まって練習に励むことができたのです!

 

大松博文監督が女子バレーの選手たちを鼓舞しやる気にさせた名言「俺についてこい!」は映画化するほど有名な名言です。

 

大松博文 映画「俺についてこい!」ストーリー

気になる映画のストーリーです!

 

一九六四年十月二十三日東京オリンピック、日本対ソ連の女子バレーボール決勝戦は、午後七時に迫っていた。大松と六人の選手にとって、オリンピックはこの日だけと言ってもよかった。勝つための苦闘の道は、一九五八年日本が六人制に遅れをとって以来熾烈をきわめた。六十年の差と体力の差を考えると、世界に勝つことは不可能に近かった。

前川バレー協会理事長の熱意に負けた大松と六人の選手は、苦難の道を歩くことになった。だが、苦難にたえ犠牲にたえたのは、この日より一線を退いて、陰の力となったマネージャーの松木、大松の妻美智代も同じであった。

一九六〇年、六人制採用二年で、世界二位となった大松は、この日から、一位を目指して、鬼の大松と化した。そして、独特な回転レシーブに青春をかけた六人の選手は魔女と呼ばれて、世界に類のないチームワークを作りあげた。

一九六一年、三大陸戦に勝利を収め、つづく翌年十月モスクワの第四回世界選手権で宿敵ソ連を押えて、名実共に世界一位の座を獲得した。選手の涙ぐましい熱意と、それにともなう犠牲と、家族の苦悩を考えた大松は、バレー界から引退の覚悟を決めた。

だが、小畑五輪事務総長の懇願で大松は、再びボールを握った。六人の選手も、やめるという言葉は決して吐かなかった。河西は父親の死に目にも会えず、今日をむかえた。

場内放送にうながされて、入場する選手に、大松は感謝と祈りをこめた。選手は手拍子にのって会場に出た。そして、当然のようにソ連に勝った。...
引用先:https://eiga.com/movie/70258/

 

バレーボール監督の実話が映画化なんてすごいですよね!東京オリンピック決勝の日本vsソ連のテレビ中継の視聴率が70%近かったことからわかるように、国をあげて応援していたことがとてもよくわかりますね!

 

6人制バレーボールと9人制バレーボール

バレーボールは歴史が進むにつれて、ルールが細かく設定されていくようになりました。コートに入れる人数も自由だった時代から今現在は6人にまで人数が減っています。人数が減ったことでより戦術を考える必要があり、競技として確立していきました!

 

6人制バレーボールのコート・ルール

縦ライン18m、横ライン9mの長方形で区切られたコートで「6対6」でボールを相手コートに先に落とす競技がバレーボールです。

 

ネットの高さは成人男子が2,43cm、成人女子が2,24cmです。ネット下のセンターラインから3mにはアタックラインと呼ばれるゾーンが存在し、後衛はそのアタックラインより前でスパイクしてはいけないんです!

 

公式ルールでは天井の高さ12,5m以上、最低気温10℃以上、照度1000-1500lx以上という細かいルールもあるそうです。

 

カッキー
世界レベルになったら温度まで規程があるんだね!10℃以下の冷え冷えの体育館で公式戦やるなんて日常茶飯事だったよ!笑)

 

9人制バレーボールのコートとルール

9人制バレーボールは中学生以上の男子のみコートのサイズが6人制と異なります。

一般男子 21m × 10.5m
一般女子 18m × 9m

 

私も男子9人制バレーボールをプレーすることがありますが、6人制バレーボールとコートサイズが1,5m違うだけでコートの感覚が全然違います。

 

カッキー
少しスパイカーがふかした(アウト気味)ボールもインになるんだ!守備範囲がかなり広くなるから、すごく大変だよ!

 

またアンテナも少しコートの外側についているという微妙な違いがあります!これ最初は対して変わらないだろ!って思ってましたが、ストレートのコースが6人制バレーボールじゃありえない角度でスパイクが入ってきます(笑) アンテナの位置・・・曲者です・・・

 

6人制バレーボールと9人制バレーボールの違い

6人制バレーボールと9人制バレーボールの違いは以下の通りです!

 

・ネットの高さが違う
・コートが6人制バレーボールに比べて広い
・ブロックでボールに触れば1カウントされる
・ブロックをネットより前に出すとオーバーネットの反則になる
・サーブが2回打てる
・サーブがネットインしてはいけない
・アンテナの位置がライン上より20cm外側にある
・パッシングの反則がない。但し相手を妨害した場合はインターフェアになる
・6人制で行われるローテーションが9人制では行われない

 

こちらの記事でも詳しく紹介してます!

 

バレーボールの「ボール」の歴史

バレーボールのボールは歴史が進むにつれてどう進化していったのでしょうか?バレーボールのプレースタイルやフォーメーションが変化したようにボールも同じだけ進化していっているんです!

 

超個人的な意見ですが、公式球が毎年男女で入れ替わるんですが、モルテン製かミカサ製どちらかに統一してほしいです!!ボール変わるだけで別競技になったレベルで感覚変わりますから!!!

 

モルテンバレーボールの歴史

 

 

5号球 軽量4号球
戦前~戦後 貼りボールを開発。
1960年

貼りボールが日本バレーボール協会の検定球として認定。

MTV5

1964年 東京オリンピックで検定球メーカーの貼りボールが試合球として採用。
MTV5 MTV4ES
1999年

カラー化

モルテンカラーボール(天然皮革製・5号球・MTV5IT)発売。

MTV5IT

モルテン小学生バレー用カラーボール(天然皮革製・軽量4号球・MTV4ESIT)発売。

MTV4ESIT

2000年 カラーボール(MTV5IT)がVリーグ試合球として採用。

モルテン小学生バレー用人工皮革製カラーボール(軽量4号球・MTV4ESSLIT)発売。

MTV4ESSLIT

2001年

素材の改良

モルテン人工皮革製カラーボール(5号球・MTV5SLIT)発売。

MTV5SLIT

2003年 人工皮革製カラーボール(MTV5SLIT)がVリーグ試合球として採用。
2005年

モルテン小学生バレー用18パネルカラーボール(軽量4号球・MTV4ES18P)発売。
小学生バレーボールは、3月までは12枚パネル。4月から一部で18枚パネルを併用。

MTV4ES18P

2006年 小学生バレーボールは、4月から18枚パネルに統一。
2009年

新技術搭載

フリスタテック搭載の新バレーボール(5号球・V5M5000)発表。

V5M5000

フリスタテック_搭載の小学生バレー用新バレーボール(軽量4号球・V4M5000-L)発表。

V4M5000-L

引用先:モルテンバレーボールの歴史

 

ミカサバレーボールの歴史

ミカサのバレーボールの製造は1950年ごろから開始されました。戦争後の日本は国民の体力向上と暗い雰囲気を変えようとスポーツに力を入れていました。男女問わずプレーできるバレーボールは人気もすごかったといいます。

 

自社製バレーボールの認知度を高めるためにまず必要なことは、バレーボール界を統括している国際団体及び国内団体の公認を得ること。

こうした団体に認められることが、製品の品質が優秀であり、安定していることの証となるからだ。

バレーボールの場合、「国際バレーボール連盟(FIVB)」と、同団体に加盟する「日本バレーボール協会(JVA)」がそれにあたる。

公認と検定は、各団体のボール規格に準拠した製品に与えられる。例えばFIVBによるインドア用ボールの規格では、周囲65-67cm、重量260-280g、内圧0.3-0.325kgf/cm2と決められている。

ミカサのようにある程度の技術レベルを維持しているメーカーなら、FIVBの公認球やJVAの検定球に選ばれることはさほど難しくない。実際、常に複数のメーカーのボールが両団体の公認球・検定球となっている。

難しいのは、そうした団体が主催する公式試合の「試合球」に選ばれるかどうかだ。公式試合球に選ばれるボールは、特定のメーカーが製造する1種類のボールに限定される。

世界大会や国内のVリーグでは数多くの試合が行われ、使用されるボールも膨大な数になる。試合によってボールの特性に変化があることは許されないので、何よりも安定した品質が重視されるのだ。

ミカサの強みは、バレーボールだけでも1日1000個以上に及ぶ豊かな生産実績。試合球は、その中から厳しい条件に合格したものだけが選別される。優良製品を数多く作っているからこそ、プロの使用に耐えうる製品を提供することができるのだ。

FIVBの場合、公式試合球に選ばれたメーカーは、4年間にわたってFIVBが主催する公式試合にボールを提供することになる。試合はオリンピック、世界選手権、ワールドカップなど、トップレベルの世界大会ばかり。当然、全世界のバレーボールファンが自社のボールを目にすることになる。メーカーにとってこれほどの名誉はない。

ミカサは東京オリンピックの公式試合球として採用されたが、この時は他メーカーのボールも試合球に選ばれていた。同社が他社に先んじていたのは、早くから海外進出を念頭に置いていたこと。

そのため、当時の仲田國市社長はFIVBに対して積極的に自社製品の優秀性をアピール。業界に先駆けて、1969(昭和44)年にFIVBから国際大会公式試合球としての認定を受けることに成功した。

以降、ミカサのバレーボールは1972(昭和47)年のミュンヘン大会と、1980(昭和55)年のモスクワ大会以降すべてのオリンピックで公式試合球に選ばれている。

引用先:国際大会公式試合球に認定、世界のミカサへ

 

上の記事を読むと、ボールの見た目だけでなく内部の作りまで考え込んで作られて歴史が進むと共にボールが進化してきたことがよくわかります。

 

今現在のミカサのバレーボールはこのような感じになっています。このミカサボールの表皮パネル使用枚数は8枚ですが、昔のミカサボールは18枚もの表皮パネルを利用してボールを作っていました。真っすぐの表皮パネルではなく、複雑な形をした表皮パネルを8枚利用して作っているのが特徴のボールです。

 

また白色をボールから抜いて、青色と黄色で構成したことにより選手が目でボールを認識しやすいようになっている!目でボールの回転も認識しやすいので、レシーブの時にボール変化が判断判断しやすいのも特徴だ!

 

他のメーカー含めて違う点が2つあります!

  1. ミカサボールのクッション性を高めていること
  2. ミカサボールに凹凸の加工を施したこと

 

①のボールのクッション性を高めることで、強打レシーブ(ディグ)やレセプション(サーブカット)の時のボールの衝撃吸収力をアップさせることができる。

 

②ミカサボールに凹凸の加工を施す事で、バレーボールのコントロールがしやすくなるという。凹凸がない今までのボールの場合はオーバーハンドパスをした時に汗などで滑りやすく、ミスによるラリー終了が目立っていた。それがこの凹凸により大幅に減少されるのだ!

 

あるインタビュー記事によると、進化したミカサボールは「表皮パネルが汗を吸収しないのでボールが汗により重くならない」「スパイクやレシーブでボールのコントロールがしやすい」という意見があったといいます!

 

個人的にも、ミカサのボールは扱いやすいので好きです。私が特に気に入っている点は、①レシーブした瞬間に腕に張り付く時間があるのでボールをコントロールしやすい②色が見やすいのでボールを正確に捉えやすい。ことです。

 

ほぼ企業が意図している点を一致していると思います。相当考えて作られたボールなんだと思いとても感動しました!モルテンも嫌いではないですが、ミカサよりは上記の2点で劣ると個人的には思います。

 

カラーボールはいつから使うようになったの?

バレーボールは昔は真っ白の白球でした。今メジャーなボールのメーカーはモルテン製とミカサ製の2タイプがあって全てカラーボールです。最初に公式球としてカラーボールを採用したのは1998年頃でした。

 

バレーボールキャリアの長い人は見憶えがあるデザインではないでしょうか?青色、黄色、白色という3色の組み合わせだったんです!スポーツなどもテレビ中継されることが多くなり、一般家庭でもテレビを見ることが多くなってきた頃ですので、テレビ中継で見やすくする為という理由もあるそうです!

 

確かにテレビの画質が悪くて白球だと球がどこにあるかわからないですもんね(笑)選手側にも好評だったようで、白球だとボールが回転している方向がわからずボールの変化が予測できなかったそうです。私も白球でプレーしたことがある年齢ではないので体験はしたことがないですが(笑)

 

個人的な意見ですが、今のモルテンの「緑色、赤色、白色」の色合いよりミカサの「青色、黄色」の方が見やすいと思うので、白色だけだと全く回転がわからないんだろうなぁっと想像します。

 

カラーボール世代は無意識にボールの回転で変化を予測してると思うのでその判断がしにくい状況でバレーボールをするのはとても難易度が高かったんだろうなぁと思います。

 



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